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​記憶される名
 

私たちのピラティス スタジオの名前「ナウシカ」は、古代ギリシャの詩人 ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場する慈愛深く美しい王女から名を拝借しました。彼女が示す「純粋さ」と「優しさ」、そして「旅人を受け入れる寛容な心」は、私たちが身体と心の調和を目指す場として大切にしたい精神の象徴です。​

​Nausica​a Pilatesの由来に寄せて

オデュッセウスに手を差し伸べ��るナウシカー

Lovis Corinth (1858–1925), Odysseus and Nausicaa (1918), lithograph, Wikimedia Commons.

Nausicaa / ナウシカー(ナウシカア)

 

ホメロスの『オデュッセイア』の穏やかな間奏の中で、運命の激流が一瞬静まる場所に、ひときわ輝きと優しさをまとったひとりの女性が現れます。ファイアキアの王アルキノオスと王妃アレーテの娘、プリンセス・ナウシカーです。彼女の名は「船」と「火」に由来し、時に激しく燃えながらも海を鎮める、そんな相反する力を秘めています。

彼女は遠く神々のような存在ではなく、若さと優美さ、そして確かな徳を体現しています。嵐に翻弄され見知らぬ浜辺に打ち上げられたオデュッセウスが疲れ果て裸でいるとき、彼の人間らしさを恐れずに見つめるのはナウシカーだけでした。彼女のまなざしには、古代ギリシャで尊ばれた「キシノス(客人へのもてなし)」という神聖な精神が宿り、まるでオリーブの森を渡るそよ風のように自然な優しさが感じられます。

オデュッセウスは彼女を、野生と純潔の女神アルテミスに例えました。しかしナウシカーの美しさはただの容姿だけではありません。それは無垢でありながら成熟した魂の輝きであり、慎ましくも揺るぎない存在感です。彼女の施す助けは一時的なものではなく、母親のような慈愛と導きの灯火となり、迷える旅人を安息へといざないます。

ナウシカーを通じて、『オデュッセイア』はひとつの普遍的な真実をささやきます。すなわち、弱さの瞬間に示される優しさこそ、英雄譚に勝るとも劣らない力を持つのだと。衣服を与え、食事を施し、宮殿への道を開く彼女の行為は、物質的な施しにとどまらず、尊厳の回復と「あなたは ひとりではない」という約束を意味します。

 

数多の偉業と壮大な冒険に彩られる世界のなかで、ナウシカーの静かな存在は、時として救いは見知らぬ者の小さな寛容と、海辺の思いがけない優しさにあることを教えてくれるのです。

 自分ではない「誰か」になろうとする時代において

 

私たちが生きるこの現代は、無数の鏡が「誰か別の自分」になることを促す時代です。けれど、ナウシカーが物語で静かに示したもの──それは、他者を迎え入れながらも、自らの輪郭を損なわぬ強さと、ありのままを慈しむまなざしでした。

飾らず、演じず、ただしなやかにそこにあること。その姿は、他者を迎え入れる行為そのものが、自己の輪郭を際立たせるという真理を教えてくれます。

 

ピラティスのひとつひとつの動きもまた、内なる静けさに触れるための所作であり、自分の声に耳を澄ますための行いです。

私たちのスタジオ〈Nausicaa〉が、ナウシカーのように──純粋な優しさと確かな存在感をたたえ、誰かになることを急ぐのではなく、「自分らしさ」を慈しむための静かな港であり続けることを、私たちは静かに願っています。

ナウシカーとオデュッセウスの出会い

Michele Desubleo (circa 1601–1676), Odysseus and Nausicaa (c 1654), oil on canvas, Museo di Capodimento, Naples. Wikimedia Commons.

ふたりのその後──忘却と記憶のあわいで

 

別れのとき、オデュッセウスはようやく故郷イタカへの帰路に就きます。
その港で、ナウシカーは静かにこう語ります。

「どうか、私のことを思い出して下さい。あなたの命を救った者として──そう語ってくださるなら、それだけで十分です。」

彼女は報酬も、約束も求めませんでした。ただ一つ、名前すら残らぬ存在として風に消えてゆくのではなく、誰かの記憶の片隅に、自らの優しさの痕跡が留まることを願ったのです。

それは、声高に自分を主張するのではなく、他者の物語の中にそっと編み込まれることへの静かな選択でした。

私たちの営みもまた、誰かの人生の旅路にそっと添うものとして在りたいと、そう思うのです。

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